多摩の緑爺の
植物文化誌
9月:1.「重陽(ちょうよう)の節供」−「菊の節供」、「着せ綿」、「野菊」?
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9月9日は「重陽(ちょうよう)の節供」です。
中国の陰陽思想では奇数は陽数で、9月9日は最大の陽数である「9」が重なるので「重陽」です。
もともとは、奇数が重なると陽の気が強くなり過ぎて不吉であるとされていたようですが、後には逆に「吉」であるとされ祭事が執り行われるようになったと言われることもあります。
「五節供」のひとつです。「重陽の節供」と同じく、陽数である奇数が重なる、
・「人日(じんじつ)」−一月七日
・「上巳(じようし)」−三月三日
・「端午(たんご)」−五月五日
・「七夕(しちせき)」−七月七日
の節供と合わせて「五節供」です。
「重陽の節供」は、平安時代初期に中国から伝来したとされています。当時の中国では「菊」には邪気を祓(はら)う力があると信じられていて、奈良時代末期に渡来していた「菊」と結びついて、当初は宮中行事として貴族の間で「観菊の宴」が催されたもののようです。
また、菊の花を浸した「菊酒」を飲み交わすことも行われていたようです。菊の持つ霊力によって、長寿を願い災厄を祓うと信じられていたようです。
このことから、「重陽の節供」は、「菊の節供」とも呼ばれます。
旧暦の9月9日は、現代の暦では晩秋にあたり、菊の開花時期にあたります。
しかし、現代では「重陽の節供」は、「節供」としは一般的ではなくなっています。ただ、菊人形展や菊の品評会などはその名残であろうとされています。
なお、「菊」は、中国北部原産のチョウセンノギクと中国中部原産のハイシマカンギクの交配種から生まれ、多くの品種が作出されたものとされています。
通常「菊」と呼ぶのは、これらの品種です。日本の山野に自生するキクの仲間は「野菊」と総称するのが普通です。
また、「重陽の節供」の前日、9月8日に「菊の花」に真綿をかぶせておいて菊の花に着く露から霊力を移し、顔や身体を拭いて、長寿を願い邪気を祓うことも行われ「菊の着せ綿」とよばれていました。
紫式部は、自らの歌集「紫式部集」で、
「菊の花 若ゆばかりに 袖ふれて 花のあるじに 千代はゆづらむ」
と詠っていますが、藤原道長の奥方から「菊の着せ綿」を贈られて感激した際の和歌であるとされています。当時は「真綿」は貴重品であったこともあって、「私は若返るほどに僅かに袖を触れさせていただいて、千代の長寿は贈リ主に譲りましょう」といった意味のようです。
「菊の着せ綿」は、枕草子などにも現れています。
源氏物語に、
「色まさる まがきの菊も をりをりに 袖うちかけし 秋を恋ふらし」
の歌がありますが、「色づいた菊」を詠んでいるので「菊」を詠んでいるとされています。
古今集にも、
「露ながら をりてかざさむ 菊の花 おいせぬ秋の ひさしかるべく」
「秋をおきて 時こそありけれ 菊の花 うつろふからに 色のまされば」
などがあり、やはり「菊」を詠んでいるとされています。
その後、菊は桜とともに日本を代表する花となっています。
江戸時代には、菊の品種改良が盛んになり、多くの品種が作りだされています。その数は、2,000種にも及んだとされています。
また、八重咲の菊をモチーフにした「十六八重表菊」は、天皇と皇室の紋章になっています。
なお、ヨメナ、ユウガギクやリュウノウギクなど日本の山野に自生するキクの仲間は一般に「野菊」と総称されますが、花が大きく彩りも多様な「菊」に対比させて「野にある菊」とされたもののようです。
万葉集に、「うはぎ」として「ヨメナ」が2首で詠われていますが、これらは「野菊」を詠んだというよりも「春の若菜摘み」の対象として食用にするというものです。
「妻もあらば 摘みて食げまし 沙弥の山 野の上のうはぎ 過ぎにけらずや」
「春日野に 煙立つ見ゆ 娘子らし 春野のうはぎ 摘みて煮らしも」
また、古今集(百人一首)にあるよく知られた歌、
「心あてに 折らばや折らむ 初霜の おきまどはせる 白菊の花」
は、「初霜が降りたおかげで白い花の菊かどうか惑わせる」といった意味なので、必ずしも「野菊」とは言えないようです。
江戸時代に入ると芭蕉や蕪村の俳句に「野菊」として現れています。また、「野菊」は俳句では秋の季語です。
「なつかしき 紫苑がもとの 野菊哉」 蕪村
「なでしこの 暑さわするる 野菊かな」 芭蕉
有名な伊藤左千夫の小説
「野菊の墓」
の「野菊」は、カントウヨメナやユウガギクであるとする説が有力なようですが決定的ではないようです。
なお、「野菊の墓」には、他にも多くの野の花が現れています。
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