多摩の緑爺の
植物文化誌
4月:5.クマガイソウ−源平合戦、平家敗走、熊谷直実、アツモリソウ
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クマガイソウ(熊谷草)の名は、仲間(同属)のアツモリソウ(敦盛草)とともに「平家物語に現れる熊谷直実(くまがいなおざね)と平敦盛(たいらのあつもり)の一騎打ち」にちなんだ命名です。
当時の武士は後ろからの矢を防ぐために母衣(ほろ:竹製の籠に丈夫な布をかぶせてたもの)を背負っていましたが、袋状の花をその母衣に見立てています。
やや剛直な印象のあるクマガイソウを熊谷直実にあて、クマガイソウよりも優しい印象のあるアツモリソウを平敦盛にあてています。
いつ頃にこれらの名がつけられたかは定かではないようですが、少なくともこの故事以降の鎌倉時代よりも後の時代であろうと推定されます。
平安時代末期(1180年)に源氏と平家の間で戦われた「石橋山の戦い」を機に、それまで平家に仕えていた熊谷直実は、源頼朝の臣下となり、「一の谷(現在の神戸あたり)の合戦」で敗れて敗走する平家を追い、自分の息子ほどの年齢(16歳)で、 武士に敵うはずのない公達(きんだち:公家のこと)である平敦盛の首を討たざるを得なかった。
鎌倉時代に編纂された歴史書「吾妻鏡」にもこのあたりの様子が描かれています。源義経が70騎ほどを率いて、険しい「一の谷」の背後から攻撃を仕掛けたことが記されています。
これが有名な「鵯越(ひよどりごえ)の逆(さか)落とし」です。
熊谷直実は、その後、平敦盛の霊を弔うため出家したとされ、蓮生(れんせい)と号しています。
この平家物語の「敦盛最後」の段での平敦盛と熊谷直実の一騎打ちは、後世の武士たちに武家の背負う宿命と無常感をあらわす故事として大きな影響を与えています。
この故事は「能」の「敦盛」としても演じられています。
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