多摩の緑爺の
植物文化誌
4月:1.「お花見」 −昔は梅を観賞した?・・起源は?
トップページへ戻る
文化誌トップへ戻る
お花見は、現代では満開の桜の木の下での酒宴としての行事として定着していますが、その起源には諸説があります。
代表的なものに、奈良時代の頃に行われていた「花を愛でて宴を催す貴族の行事」がお花見の起源であるとの説があります。
また一説には、田植えの頃にちょうどサクラが開花することから、田植えの前に豊作を祈願した神事がお花見の起源であるとの説もあります。
「サ」は「田神」(さがみ)のサを意味していて穀物の霊を表し、「クラ」は田の神の依りつく「座」(クラ)を意味しているとの民俗学的な解釈です。
ただ、当初のお花見は「桜」ではなく「梅」を愛でていたようです。
8世紀中頃に、大宰府で大伴旅人が梅の宴を開いたとの記録があります。
事実、奈良時代に編纂された万葉集では、梅を詠んだ歌は118種にもおよびますが、桜を詠んだ歌は41種にとどまっています。
「我がやどに 盛りに咲ける 梅の花 散るべくなりぬ 見む人もがも」 万葉集巻5
「霞(かすみ)立つ 春日の里の 梅の花 山のあらしに 散りこすなゆめ」 万葉集巻8
梅が中国から日本に渡来したのは奈良時代の前の飛鳥時代であろうと推定されていて、梅の花の美しさや香りのよさに、当時の貴族や文化人が魅了されたことが伺えます。
ただし、弥生時代の遺跡から梅の種子が発見されているので、もっと古い時代に薬木として渡来していたとも言われています。
中国では古くから薬用として栽培されていて、漢方薬として「烏梅(うばい)」などがあります。
したがって、「古事記」や「日本書紀」には「梅」は現れていません。逆に「桜」が現れているとの解釈もあります。
神代の巻にある「木花之開耶姫」(このはなのさくやひめ)の「木花」は「桜」を意味しているといわれています。
なお、梅は万葉集では「ウメ」と呼び、平安時代から江戸時代までは「ムメ」となり、現代ではまた「ウメ」に戻っています。
それかあらぬか江戸時代に来訪したシーボルトが命名した学名では「Prunus mume」(プルーヌス ムメ)となっています。
いずれにしても、平安時代以降には、花見と言えば「桜」であったようです。奈良の吉野山のヤマザクラなどを鑑賞したのでしょうか。
現代では、「桜」と言えばソメイヨシノですが、ソメイヨシノが現れたのは江戸時代なので、それまでは、主としてヤマザクラなどを鑑賞していたはずです。
染井吉野(そめいよしの)は自生のオオシマザクラとエドヒガンとの交雑種と推定されていて、江戸時代に染井村(現在の東京都豊島区駒込)の植木屋が「吉野山へ行かずとも吉野の桜を見られる」などと売り出したものと言われています。
これが染井吉野の名の由来です。
トップページへ戻る
文化誌トップへ戻る