クマガイソウ(熊谷草)         
多摩の緑爺の「多摩丘陵の植物と里山の研究室」

クマガイソウ(熊谷草) ラン科アツモリソウ属
学名:Cypripedium japonicum

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■特徴・分布・生育環境
環境省の絶滅危惧U類に指定されています。   
草丈20〜40cmほどの大型のランの仲間です。杉林や竹林の林床を好みます。

茎をほぼ直立させて、茎頂に2枚の大きな(径20cmほどになります)扇型の葉を対生状につけます。
葉には放射状の葉脈が多くあり、葉脈が凹んでいるために縦じわが目立ちます。

花は春に咲き、2枚の葉の中心から1本の花茎を立て、径10cm近くになる淡紅紫色の袋状の花をつけます。
花は、袋状の唇弁と、その背後の淡黄緑色の花被片からなっています。

北海道西南部から九州、朝鮮半島・中国大陸に分布します。
多摩丘陵では、旧家の庭や裏山などに保護植栽されているものを除いて、2010年現在、自生のものは1ヶ所で数個体が確認できているだけです。この40年ほどの間に盗掘が相次ぎ地域絶滅寸前です。

■名前の由来
仲間(同属)のアツモリソウ(敦盛草)とともに「平家物語の平敦盛(たいらのあつもり)と熊谷直実(くまがいなおざね)の一騎打ち」にちなんだ命名です。

当時の武士は後ろからの矢を防ぐために母衣(ほろ:竹製の籠に丈夫な布をかぶせたもの)を背負っていましたが、袋状の花をその母衣に見立てています。

やや剛直な印象のあるクマガイソウを熊谷直実にあて、クマガイソウよりも優しい印象のあるアツモリソウを平敦盛にあてています。
いつ頃にこれらの名がつけられたかは定かではないようですが、少なくともこの故事以降の鎌倉時代よりも後の時代であろうと推定されます。

■文化的背景・利用
平安時代末期(1180年)に源氏と平家の間で戦われた「石橋山の戦い」を機に、それまで平家に仕えていた熊谷直実は、源頼朝の臣下となり、「一の谷(現在の神戸あたり)の合戦」で敗れて敗走する平家を追い、自分の息子ほどの年齢(16歳)で武士に敵うはずのない公達である平敦盛の首を討たざるを得なかった。

その後その霊を弔うため、熊谷直実は出家し蓮生(れんせい)と号しています。

この平家物語の「敦盛最後」の段での平敦盛と熊谷直実の一騎打ちは、後世の武士たちに武家の背負う宿命と無常感をあらわす故事として大きな影響を与えています。
この故事は「能」の「敦盛」としても演じられています。

江戸時代の貝原益軒による「大和本草」を始め、「本草綱目啓蒙」や「和漢三才図会」などの本草書にその名が現れています。

■食・毒・薬
有毒であるという報告も、薬用にするという報告もないようです。
食用にはされないようです。もっとも、絶滅危惧種なので食用にすることなど考えられませんが・・・。

■似たものとの区別・見分け方
似た仲間(同属)のアツモリソウは花がクマガイソウよりも一回り小さく、また袋状の唇弁の背後につく花被片の幅が広く、袋状の唇弁と同じように色づくことで区別できます。
多摩丘陵には、アツモリソウの自生はなかったと考えられます。    
  
写真は「花」と「全体」の2枚を掲載
クマガイソウ
クマガイソウの花
クマガイソウ
クマガイソウの全体